2007年01月23日

今日の学び−42

人生には「めぐり合わせの花束」が限りなくある


ウエイン・Wダイアーの著書のなかの言葉

 私はどんなことをしているときでも、みんなが仲良く暮らしていける方法を探し求めている。1分間に2500万ドルを武器の出費にあて、1分間に40人の子供を餓死させる世界が、肌のいろ、宗教の違いばかりに目を向ける分析的世界であることを私は知っている。けれども、どんな肌の色、宗教、国籍の人であろうと、他の人間に会うたびに人間としての共通点が私には見えるのだ。
 腹がすいたり、子供をかわいがったり、食事をしたり、考えたりすることは人間に共通している。私たちが、分析的なものの見かたばかりでなく、もっと統合的なものの見かたをすれば、バラバラな世界さえひとつにしていくことが可能になるだろう。
 外を見ると数え切れないほどたくさんの花が咲いている。神はまったく無理な力を使わずに、そういうことをしているということを忘れてはいけない。
 花といえば、私は最近こんな話を耳にした。
 ニュージャージー州に住むある夫婦は大きな温室を持っており、いつも温室を花でいっぱいにしていた。温室ではめったに育たないキンセンカも花を咲かせていた。
 雪の多い一月のある夕方、夫婦は以前住んでいた近くの町に、アマチュア・オーケストラの練習に出かけた。リハーサルのときにプレゼンとしようと、大きなキンセンカの花を持っていくことにした。ふたりはオレンジ、黄色、赤といった明るい色の花がきっと寒い夜を暖めてくれるだろうと思ったからである。
 町にはいると、夫は川沿いの裏道に車を乗り入れた。雪はまだ降り続いていた。小柄な老婦人がたったひとり歩いているほかは、そのあたりに人気はなかった。夫婦はその老婦人が以前となりに住んでいた人の母親だと気づいたので、車を止めて、「車に乗っていきませんか」と声をかけた。老婦人はちょっととまどったようすだったが、結局、行き先を言って車で送ってもらった。彼女が車から降りるとき、夫婦は花束をプレゼンとした。
 三日後、その夫婦は老婦人から手紙を受け取った。手紙には車に乗せてもらったことと花束へのお礼がしたためてあり、ふたりのしてくれたことが、どんな意味を持っていたかがかかれてあった。
 手紙の老婦人はずっと病院の看護婦をして働いていた。けれども、あの日、もう年だし、体も弱くなったので仕事を辞めようと観念した。家族の厄介者になりたくなかったから、もし「もっと生きつづけなさい」というしるしを神様が見せてくれなかったら、彼女は川に身を投げて死のうと決心していたのだ。
 文字どおり、あの花束が彼女の命を救ったのである。
 このできごとには、どれほどたくさんの「めぐりあわせ」が重なったことだろう。もし夫婦が、リハーサルに花束を持っていこうとしなかったら、夫が川沿いの裏道に車を乗り入れなかったら、老婦人が通りがかったとき、ふたりが川にさしかからなかったら、もし老婦人が、花束を神からのしるしだと受け取らなかったら・・・・。
 きっと彼女はそれからの7年間の寿命を失い、家族は彼女を世話する幸せを奪われていたことだろう。
 どんなものごとも、どんな人間も、互いに関連を持っていて、信じれば必ず見えてくるのである。
 
posted by curl at 11:28| 心の問題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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