2007年01月18日

今日の学び−37

私たちは精神的存在である


ウエイン・W・ダイアーの著書のなかの言葉

 ここにグレープフルーツほどの大きさのふたつきの容器があるとする。もし私が、「ギューッとふたを閉めたら、どれほどの量の考えを、この容器に詰めることができるだろうか?」とたずねたら、あなたはきっと答えるだろう。「考えを容器に詰めることなんかできませんよ、考えはものではないのですから。かたちのないものを容器に詰めるなんて、できない相談です」と。
 では「記憶とはなんだろう」と自分に問かけてみるとよい。記憶とは、結局、ひとつのアイデア、考えだという結論に落ち着くだろう。それでは、それをあとになって思い出すために、どこにしまえばよいのだろう。記憶は脳に蓄えるのだと本気で考えている人が多い。けれども、脳はグレープフルーツほどの容器にすぎない。
 脳とはかたち、つまり物質である。かたちを持たない考えを、脳という物質に蓄えることができるのだろうか。もちろんそんなことはできないに決まっている。もし記憶を脳に蓄えることができないのなら、記憶とはいったいなんだろう。記憶はいったいどこにあるのだろう。このことについて考えてみることにしよう。
 かたちあるものを蓄えることはできる。ところが、かたちのない考えはスペースをとらない。考えはかたちがなく無限である。だから物質的な立場から考えを理解することはできないのだ。私たちすべてが精神的な存在なのだということを心の底から理解するには、物質を超越した別の次元に入らなければならない。
 以心伝心によって、理屈では説明のつかない不思議なハプニングが起こっている。もし、考えることと現実の出来事に目に見えない結びつきがあるのなら、考えと考えの間にも結びつきがあるはずだ。ある考えと別の考えが実際に出会ったら、そしてその考えを実際に生み出したら、「信じれば見えてくる」という状況をつくりだすことができそうだ。
posted by curl at 20:00| 心の問題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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